スタートアップの源流「あの頃のネットエイジとビットバレー」–西野伸一郎×仮屋薗聡一(前編)

近年、日本においてスタートアップへの注目度は年々高まっている。スタートアップ史を振り返ると、分水嶺となる重要なムーブメントがいくつか挙げられるが、その一つにおいて必ず語られるのは「ビットバレー」であろう。その中心的役割を果たしたネットエイジの当事者である現・富士山マガジン代表取締役の西野伸一郎氏とグロービス・キャピタル・パートナーズのパートナーであり日本ベンチャーキャピタル協会会長を務める仮屋薗聡一による対談をお届けする。ビットバレーの勃興から約20年を経て、今再びベンチャーがコミュニティを生み、真のエコシステムとなるためには何が必要なのか?若手起業家にとっても重要な示唆が得られるはずだ。

前編では、「MBAベンチャー研究会」、「ビターバレー宣言」、「ビットな奴らの(アトムな)飲み会」などの重要なコミュニティやイベントにネットエイジの源流を辿りながら、ビットバレーへと結実するそのプロセスを探っていく。

(編注※:当記事はインターネットビジネス黎明期の当事者であった二人による対談という形式をとっていますが、20年以上前の時代状況について話しているため必ずしも事実内容、時系列は正確ではない可能性があります。)

(司会:福島智史 構成:長谷川リョー

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仮屋薗聡一(写真左)、西野伸一郎氏(写真右)

[仮屋薗聡一]
ネットエイジ取締役1999-2008年。株式会社三和総合研究所での経営戦略コンサルティングを経て、1996年、株式会社グロービスのベンチャーキャピタル事業設立に参画。1号ファンド、ファンドマネジャーを経て、1999年エイパックス・グロービス・パートナーズ設立よりパートナー就任、現在に至る。
2015年7月より一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会会長を務める。
慶應義塾大学法学部卒、米国ピッツバーグ大学MBA修了。

著書に、「機関投資家のためのプライベート・エクイティ」(きんざい)、「ケースで学ぶ起業戦略」(日経BP社)、「MBAビジネスプラン」(ダイヤモンド社)、「ベンチャーキャピタリストが語る起業家への提言」(税務研究会)がある。

[西野伸一郎]
1964年東京生まれ。88年明治大学卒業。同年NTT入社、93年ニューヨーク大学にMBA(経営学修士)留学。その後、シリコンバレーのベンチャー企業への投資やジョイントベンチャーの設立などに携わる。98年、西川潔と共に㈱ネットエイジ(現ユナイテッド株式会社)設立に参画、取締役に就任。同年、米国Amazon.comのジェフ・ベゾスCEOに日本法人立上げを提案。99年9月Amazon.co.jp設立準備のためにAmazon.com本社(シアトル)にてInternational Director/Japan Founder(日本創業者)に就任。2000年11月にAmazon.co.jpを開設、事業を成功に導く。02年7月、日本初の雑誌定期購読エージェンシー「㈱富士山マガジンサービス」設立、代表取締役社長就任。02年12月、雑誌のオンライン書店/~\Fujisan.co.jpスタート。15年7月東証マザーズ上場。

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(1999年3月11日に配信された当時のメルマガ『週間ネットエイジ』。代表の西川氏が起草した「Bitter Valley 構想宣言!」)

西野伸一郎(以下、西野):「ビットバレー」と聞いても、今の20代はピンと来ないでしょうね。でもそれで良いと思う。良くも悪くも(スタートアップの)生態系が少なくともここまでできあがっていることを考えると、知らなくて当たり前だし、それはそれで良いことなんだと思う。

仮屋薗聡一(以下、仮屋薗):語り継ぐ機会がなかったからかもしれないですね。『バブルへGO!!』(2007年)なんて映画もありましたが、リアルタイムで生きていなかった世代にとってはまるで別世界なんでしょう。逆に我々はその世界で生きてきたので、今と時間のズレをそれほど感じません。こうしたギャップは今の若い世代とあるかもしれないですね。

西野:「ベンチャーキャピタルをやってみたい」と言っていた若かりし頃の仮さんが、今じゃ日本ベンチャーキャピタル協会の会長とか言う“お偉いさん“なんでしょ?だから変わっていないどころか、時代は何回転も時代は変わったんだと思います。

仮屋薗:僕の中では時間が止まったままなんですね。今日もここ(渋谷区にある富士山マガジン)に来る途中、昔に歩き慣れたルートを通って、時間が経っている気が全然しませんでした。あれから20年になりますが、「西野さんは変わらずにここにいるのか」と少し感慨深かったです。

ネットエイジの源流にある「MBAベンチャー研究会」

ーーそもそもお二人の出会いは「ネットエイジ」、それとも「ビットバレー」なのでしょうか?

仮屋薗ネットエイジができる随分前です。もともとは「MBAベンチャー研究会」という勉強会。94、95年あたりにハーバードやスタンフォードでMBAを修了した人たちが帰国後、月に一度平日の夜に開催していたものです。ベンチャー企業を興すことを意識した人たちが、自分の企画や研究を発表する場でした。95年に帰国された西野さんともこの勉強会で初めて会ったんです。

僕は96年に帰ってきたのですが、それ以前に堀義人さんが2年間やられていたということで、「そろそろバトンタッチしたい」とおっしゃっていました。そこで第二期のリーダーとして西野さんと僕にやってほしいということで、しばらくは二人で運営しました。

西野「MBAベンチャー研究会」、懐かしいね!全てはそこからスタートした感があるねぇ…

仮屋薗97年に「ベンチャーに興味があって、起業したい」ということで、西川潔さんが来たんです。西川さんと僕は「MBAベンチャー研究会」で初めて会いました。そこで西川さんがネットディーラーズ(自動車仲介サイト)の事業計画をプレゼンをしたんですよね。(その後、NetAge設立後、このNetDealersが億単位でM&Aが決まった日本初の案件になりました。)それを経産省出身でCCCに行かれた小城武彦さんらメンバー全員でああでもないこうでもないと叩き合っていましたね。

あの会はアメリカ留学でインスパイアされた人が帰国して、キーパーソンだった何人かが夜な夜な集まる一つの場でしかなかった。でもそういう場自体が当時存在しなかったので、貴重だったというか。

西野:堀さんは前に、「ビットバレーはもともと俺の家だ」と言い張っていたけど、たしかに一度堀さんの家にそういったメンバーで集まったりしたことはあった。今となれば何がスタートなのかはもうよく分からないですけどね。

仮屋薗:勉強会が終わってから麹町の家に行ってたんですかね。僕はまだいなかったので、西野さんが帰ってきたばかりの時かもしれないですね。

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西野:その頃僕はNTTにいて、パソナとジョイントベンチャーを作って、パソコンを教える塾のフランチャイズ事業の立ち上げに携わっていました。そのときにこのMBAベンチャー研究会で西川さんとも会ったのですが、当時AOLジャパンに勤める傍ら、個人でパソコン家庭教師事業をやっているというので、情報交換をすることになったんです。当時のNTT本社は初台にあって、AOLジャパンはそのビルと直接つながっている東京オペラシティ―にあったので、よく一緒になることが多かったんですね。

仮屋薗:97年頃ですね。

西野:当時、吉祥寺にアパートを一室借りていて、そこで大学生を集めて、パソコン家庭教師の派遣事業をやっていました。そこに僕も加えてもらい、アフター5と週末中心に吉祥寺に入り浸るようになりました。その後、あらためてネットエイジを作ろうという話になるわけですが…

仮屋薗:設立のとき、西野さんはエンジェルとして投資したんですよね?

西野:エンジェルというよりは、西川さんの友人中心に仲間内で数十万円ずつ出し合ったって感じです。株式会社の設立には最低1000万円、株券の額面は5万円でなければならないみたいな時代でした。創業時に結局いくら集めたかというと…

仮屋薗:1,500万ですよね。

西野:正確には確か、1,350万だったかな。当時はまだ僕は兼業禁止のNTTにいたままで、社員として勤務するのでなく経営者として参加することは兼業に当たらないとして、創業時からの取締役に就任しました。

日本初の「インキュベーター」を目指したネットエイジ

ーーネットエイジ立ち上げのときは自動車仲介の事業をメインでやっていくつもりだったんですか?

仮屋薗:いやいやそんなことはなくて、最初は調査でしたよね?

西野:当時は「シードアクセラレーター」とか「インキュベーター」という言葉はまだなかったのですが、そういうものを目指していました。色々なことが分からない状況の中、インターネットによってあらゆる事業がリプレイスされ、新しい事業が沢山立ち上がるという確固たる信念と希望だけは持っていたというか。「インターネットの時代が来る」という確信がそのまま、「ネットエイジ」という社名にも表れているわけです。

ところが、当時のアメリカのインキュベーターといえば少なくとも2〜3会社を売却して、それなりの資金を持っているシリアルアントレプレナーとかがやるものだった。知らないということは怖いもので、当然、いきなり「インキュベーターをやりたい」という当時のネットエイジにはそんなお金もありませんでした。

仮屋薗:96年にアメリカで設立されたアイデアラボなんかは、理想とするビジネスモデルでしたよね。

西野:そうですね。目指している代表例で、あまりに憧れて本社のあるLAのPasadenaまで突撃訪問に行ったほどです。…とはいっても日銭を稼がないといけません。当時、富士通総研という会社なんかはアメリカのインターネットビジネスのことを「サイバービジネス」と呼んでいました。「サイバービジネス調査レポート」一枚につきいくらで発注するみたいな受託仕事をもらって、僕らは米国で進んでいる事例をたくさん調べたかったから、その調査を最初はたくさんやっていましたね。

仮屋薗:ページがバァーッとあって事典みたいでした。

西野:たしか1企業1〜2万円とかでした。とにかくどんなネットビジネスが新しく出てきていて、どんな競合がいるのかを調べる。それをレポートで提出して、全部プレゼンする。その日だけは、僕はNTTを休んでプレゼンに行ってました。全部で700~800社くらいは調べたんじゃないかなぁ。

仮屋薗:研究の中に「オートバイテル」があって、そこからネットディーラーズが生まれてきたんですよね。98年に創業の地となる渋谷の松濤の歯医者さんの二階に引っ越してからはインターンが集まってきました。

西野:現在、(ワーク・ライフバランス社の小室)淑恵ちゃんが一番最初のインターンだったと思う。あとは(元グリー副社長で今は慶応大学のVCやってる山岸)広太郎なんかもフルタイムでいましたね。

ーーそうしたインターンはどこから集めてきたんですか?

西野:とにかく『週刊ネットエイジ』というメールマガジンがすごいパワーを発揮していたんです。当時のメンバーに聞くと、「とにかくあれを読んで感動して、給料は半分でもいいから働きたい」という人がいっぱい集まりました。内容はアメリカを中心とした世界のIT企業の研究で、例えば今でいう「SNSのこんなコミュニティサービスが出てきたぞ」といったことが毎週ピックアップされて、メールが配信される。(その内容のネタ元が、前出の「サイバービジネス調査レポート」からだったりしました)

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仮屋薗:たしか最初は、アクセンチュアにいた(松山)太河さんや周りにいたインターンの人が管理していましたよね?

西野:「松下幸之助とか本田総一郎とか起業家の格言を一日ひとつメーリングリストで流している変わり者がいる」って僕らの間で話題になって、気が着いたらオフィスに出入りしてました。

仮屋薗:あとは椎葉宏さん。二人ともアクセンチュアにいて、ネットエイジのコアでいたのはその二人ですかね。

西野:他にもアクセンチュア出身という意味では、(現在アイスタイルCEOとCFOの)吉松君や菅原さんも出入りしてた。吉松君に始めて会った時は、コスメ商品のECやりたいからAmazonの倉庫を貸して欲しいって話だった。だから当時のネットイヤー社長の小池さんの自宅に連れて行ったら、そっちでそのまま話がまとまった。

仮屋薗:ネットイヤー関連では、(現在Fringe81の田中)弦君とか(現在スマートニュース執行役の)川崎(裕一)さんも関わってましたね。

西野:ネットイヤーのCFOだった(現Femto Capitalの)磯崎さんがネットエイジの監査役になってくれた時期もありました。その後、ベンチャーファイナンスのバイブル「起業のファイナンス」でも有名になったね。後は当時、アクセス向上委員会っていう業界では誰もが知ってるサイトを運営していた(データセクションを上場させた橋本)大也さんも、よく遊びに来てました。

「ビターバレー宣言」と「ビットな奴らの(アトムな)飲み会」

ーー遊びにくるってどういう感じなんですか?

西野:色んなプロジェクトが同時進行している感じで、例えばAmazonが日本でオークションからスタートするアイデアがありました。当時、日本ではまだオークションがなかったのですが、その調査をやっているうちにDeNAとかヤフオクが出てきた。太河をはじめ、そうした調査にmixiの笠原(健治)君とかgreeの(田中)良和君あたりの人たちに手伝ってもらっていたんです。とにかくそうした非公式のプロジェクトがいっぱいありました。

仮屋薗:あとは宇佐美(進典)さんや吉松(徹郎)さんなんかも遊びに来ていたような。夜はずっとネット談義をしていたような気がしますね。あとは実際に起業の相談もありました。小澤(隆生)さんも最初は「会社を作りたいんだけど、そもそもどうやって会社を作ったらいいんですか?」と起業の相談で来たんでしたね。

僕らが投資をしたのが98年か99年だったのですが、結果としてネットディーラーズを譲渡したのが99年の3月ですかね。それこそ僕もネットエイジに出入りして、会社の立ち上げやお金の相談を受けていたのですが、そもそもベンチャーキャピタルからスタート時点でお金を引っ張ること自体が当時はまだ一般的じゃなかったんです。

西野:仮さんが苦労していたのはよく覚えていますね。『週刊ネットエイジ』のある号で、ビットバレーに至る「ビターバレー宣言」という号があるんです。渋谷にシリコンバレーを作ろうということで、西川さんはそういう言葉を書くのが上手いので、渋い谷だから「ビターバレー」名付けようとしたんですね。その号が、ものすごくバズったんです。さらに当時業界では必ず読まれていた「SurveyML」というメーリングリストにも転用されたことで、この話題で一気に持ちきりになりました。これがビットバレーなるものが急拡大する最初のきっかけになりました。

あとは「ビットな奴らの(アトムな)飲み会」という会の存在も大きい。はじめは本当に好きな連中同士で、ネット談義しながら飲む会だったのですが、これが徐々に大きくなっていきました。この会のきっかけを作った人がKNNの神田敏晶さんという方で。

仮屋薗:テンガロンハットの。

西野:そう。彼が世界で一番小さなデジタル放送局として、勝手に「KNN.com」という名前をつけて、ビデオカメラ片手に世界中のネット系イベントを取材していました。その人がちょうど取材を終えて日本に帰ってくるので、太河が「あの人来るから飲もう」ということで、渋谷の魚や一丁という飲み屋で飲むことになった。ネットをやっている人たちが集まってすごく盛り上がったら、みんな帰れなくなってしまい、そのままネットエイジのオフィスに来て朝まで飲んだんです。「この飲み会毎回やっていこう」という話がビットバレーのきっかけの一つ。

「ビットバレー」はパブリックでオープンなコミュニティを目指した

ーーネットエイジ、ネットイヤー以外にもビットバレー構想の中には違う会社もいっぱいあったんですか?

仮屋薗:いっぱいありました。そこはオープンな場であって、ネットエイジのものというよりは、コミュニティ。

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西野:すごく大きくなっていった過程で、僕が覚えていることが一つあります。当時はまだインターキュー(interQ)という名前だったGMOのオフィスで、熊谷さんのところに集まって、「ネットエイジをはじめとした一部の人がやっているというふうになると、(ビットバレーが)コミュニティとして成長しないよね」という話になったんです。つまり、いかにパブリックなものにしていくかを会議しました。

なので、「『bitvally.org』というドメインにしようか」とか、今もある「ETICというNPO法人で運用する形にしようか」とかいかにパブリックかつオープンなものにしていくかは当時かなり話していました。

仮屋薗:そして、今から振り返ると何故エリアとして渋谷にオフィスや人が集積していったんでしょうね。そこでみんな夜な夜なお互いに議論を重ねていきながら、事業が生まれていったんでしょうか。

西野:ネットエイジが渋谷を選んだのは単純な理由。学生を集めやすそうだったから。渋谷は日吉にも繋がっているから慶應も近いし、東大も遠くない。でも当時は、仮さんが僕に「こんなにネットエイジに関わっているのに、グロービスとして出資するのは難しいんだよね」と散々言っていたのを覚えていますね。あれはネットディーラーズの前でしたっけ?

仮屋薗:今見ると、バリュエーションのやり方もかなりこじつけなんですよ(笑)。そしてエグジットが「分かりません」と書いてある。

西野:「エグジットが分かりません」って書いてあるの!?

仮屋薗:投資稟議書に。

西野:それを通した仮さんはすごいよ(笑)

仮屋薗:それが一号ファンドで、「IPOをしないという判断もあり得ます」と書いてある唯一の投資先でしたね。

西野:いやでも多分、あれじゃないですか。今となっては分からないですけど、やっぱりハンズオンでかなり初期の段階で入れてやっていくみたいなのの走りを、それもきっかけになって実現していったということなんじゃないですかね。

仮屋薗:当時はお金もなかったですし、いなかったですもんね。

西野:あれはネットエイジにいくら入れたの?

仮屋薗:最初は3,300万円ですかね。そのあと追加して、合計6,600万円になって、20数億円になった。エンジェルの西野さんはもっとリターン倍率出ていますよね!?

後編では西野氏がAmazon Japanを立ち上げることになる経緯、ビジネスモデルの絵を描いて資金調達ができた当時の起業環境、集積によるコミュニティが生み出す熱量とイノベーションを語りつつ、最後には次世代の起業家に向けたメッセージを送っていただいた。

スタートアップの源流「あの頃のネットエイジとビットバレー」–西野伸一郎×仮屋薗聡一(後編)